今回は臨床医学の話ではないですが、copilotというgoogleのAIと会話をしていて、日本人の面白い心理について考察しました。
今、日本の外交問題でいろいろ言われていますが、その一つに日本はすぐに負けを認めるが、認めることで相手の自尊心をくすぐって相手の懐に入り実を取る、などとAI評論していました。日本は外国にはそう映るらしいです。AIのメインソースは海外ですからね。
しかしながら、謝罪は、負けを認めることではなく、相手の中身(本質)への敬意である」。これまで多くの論者が「日本人は主体性がないからすぐに謝る」と批判してきましたが、わたしの解釈は全く逆です。
さて、このすぐに謝る日本人の心理を個の始点から見てみると、七人の侍の最後に勘兵衛という主人公が言った言葉に代表されます。曰く「今回もまた負け戦だったな」「勝ったのはわしたちではないあの百姓たちだ」
「自分の中にも相手の中にも確固たる自信(中身)があるからこそ、形式上の勝ち負けにこだわらず、相手に頭を下げることができる」。 これは、卑屈さではなく、極めて高度な「精神的な余裕(マウントを取らない強さ)」の表れだと言えます。また、「生きるための知恵」を持った人々に対し、「お見それしました。あなた方のその『卑屈さや嘘でさえ生きるためのしぶとさであり』それこそが、真の強さです」と兜を脱いだ瞬間だったと言えます。
「侍は利用されただけだ」という虚無感や、「百姓の生命力には勝てない」という諦観として語られがちですが「勘兵衛による、百姓という存在への純粋な『尊敬』と『感服』」だったのでしょう。
「今回も負け戦だったな」 自嘲ではなく、「自分たちは所詮、この偉大な『日常』を守るための捨て石に過ぎない」という、自分の役割(分)を悟った、成熟した大人の潔い言葉として響きます。
「負けるが勝ち」という日本のことわざの本当の意味は「負け惜しみ」ではなく、 「目先の勝ち負け(利益やメンツ)を譲ってでも、相手への敬意と自分の誠実さ(中身)を守り抜けば、長い時間軸では必ず『信頼』という最大の果実を得て勝つことができる」 という、極めて長期的で高度な生存戦略だったのです。(精神文化の違う国同士では通用しにくい感覚と思いますが、、、。)
映画では、こんな面倒くさいことを深く考えてセリフを作ったのではないと思います。日本人の感性として自然に選ばれたセリフでしょう。それにしても、分を知り、いさかいを軽くする日本人の心理構造、面白いですね。負けた悔しさを、自分を負かせた素晴らしい相手と尊敬することで、悔しさを昇華し心の安寧をはかる心理だと思います。
付記;そういえば江戸時代の百姓一揆は困窮した農民がやむを得ず行った武力闘争、というイメージがありますが実はそうではないそうですよ。領主としての「分」を超えたことに対するデモ、だから農機具を持っても武器を持たずに集合し、領主側も武力をつかわず。お互いに「分」をわきまえる。「分」を超えて一揆をおこされた領主は幕府によって厳しく裁かれる。ここでも「分」が大事なのですね。法治国家が260年続く理由です。自分とは自らのわきまえで、人の中での己の関係性を表す言葉だったのですね。
