あめのもり内科

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2024.12.30

何かの折に書いた昔の文章に改変加筆しました。

わたしはもともと消化器内科専門医となるべく東京女子医科大学病院消化器内科に入局し初期研修をスタートさせた。当時、私の研修していた病院は、内科に関してはスーパーローテートとして、二年間で消化器内科、循環器内科、腎臓内科、呼吸器内科、血液内科、糖尿病内科、神経内科などを選んで数カ月ごとに研修することになっていた。私が消化器内科に入局した1989年から、救命センターもローテートすることができるようになり、さっそく私は創設されたばかりの救命救急センターを研修することにした。

そのころ、病院勤務はまだ根性と意地で行うもので、研修医は正式の職員ではないため福利厚生も身分保障もなく、年金も入れず、住宅手当や交通手当もなく、ついでに休む時間もなく、厚生省支給病院ピンハネ残り月4万円の「お手当」だけで働いていた。驚いたことに、夜間は大学を卒業したてのこれら研修医が責任を負って、ほとんどぶっつけ本番で日勤から連続での当直業務をこなし、翌日の日勤も休みなく働いていた。もちろん病院からの「お手当」だけでは生活費には足らず、しかも当直はほぼただ働きの上、食費や交通費は自前なので週に2回の当直で足が出た。当直室もなく、夜間はナースセンターの机の上や椅子で、運が良ければ空いている患者用ベッドに寝るのである。たまに空いている当直用ベッドは数が足りず、あってもベッドメイキングはほとんどされていないため寝るにもはばかられた。このため、大学卒業早々に外部の病院へ外来診療や土日を利用しての当直などでバイト代を稼いでいたわけだが、当然、医師としての能力は全く未熟である。世間ではそのころから医療事故が問題となりつつあったが、その本質は医師の責任というより未熟な医師をこき使うシステムが問題であった。世紀末の東京はまだそんな時代だったのである。

当時の東京の救命センターの業務はすさまじいもので、一年間で300例のDOAdeath on arrival、 来院時心肺停止状態)の患者が運ばれてきていた。それ以外にも、風邪ひきや擦り傷、すね毛が枝毛などという軽症患者から精神疾患患者や重症の外傷患者、他院からの紹介、集中治療が必要な患者、大学病院にかかりつけのない飛び込み患者、暴力団や殺人事件、交通事故、自殺等がひっきりなしにやってくる。救命センターではこれを夜間はたった三人の医師が診るのである。しかも来る患者は絶対に断らない。研修医は上級医の手足としての役割が課せられ、血液検体の運搬から、患者の搬送、輸血の用意、手術の手伝い、CTなどの画像診断の付き添い、採血や注射、血液検査、点滴さらにはICU(集中治療室)で治療を受けている患者の管理まですべてやっていた。救命センターのベッドが足りなくなると、別の科のベッドを借りて入院させる。したがって、当直明けには大病院のいろいろな所に患者が散らばっていることになる。医者だけは労働シフト制がなく、看護師は医療行為を禁じられていたため若手の医師はなんでもしなければならなかったのである。

当時、外科のブランチとして機能していた救命センターは、まさに漫画に出てくるような「非常識に無頼」な医師が本当に実在しており、研修医はいつもピリピリとした雰囲気の中で、肉体的にも精神的にもぎりぎりの環境で仕事をしていた。私は、1ヶ月間で計1週間しか自分の部屋に帰ることができず、風呂も入れず、緊張感の連続の中で寝不足もあって自律神経が不調をきたし、このままでは本当に死んでしまうかもしれないと感じた。もしこのときに死んでも、研修医には労災は適応されなかったはずである。勉強させてもらっている身分で労働者とみなされていなかったからである。ちなみに医師の過労死が法的に問題となったきっかけは、1998年関西医大病院耳鼻科での事件である。過労死で亡くなった研修医の父親は社会保険労務士であり、息子の勤務実態を知って法的処置をとってからである。さすがにそれまでの無茶な研修制度は次第に改善されたが、過労問題の全てはいまだ解決されていない。

救命センター研修は野戦病院といわれたが、その一方で悪いことばかりではなく、医者として多岐にわたる技術を学ぶこともできた。私は研修終了後に消化器内科医として横浜の病院へ勤務した後にそんな黎明期の救急救命センターの救急医となり、ICUの責任者として透析を含む各種血液浄化療法や人工呼吸器も扱い、循環器病センターに院内留学する機会も得た。外科医として外科手術もしながら毎日がお祭りのような刺激的な生活であった。その一方で、医師としての経験を積むに従って、東京女子医科大学病院と、勉強をせず失敗の多い教授の古くていびつな体質へ次第に耐えられなくなっていった。何でも行ったが、逆に行えないことも知らず、変に自信をつけることへの疑問もあり、生き急ぐ時間を振り返って学生時代から考えていた海外での生活をするために自ら進路を変更することになった。

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