

















診察一回、検査一件、薬一錠に至るまで、医療の価格は国家が全国一律で定める。供給する側に、値づけの自由はない。市場が失敗する財は他にもあるのに、これほど全面的に価格決定権を国家が引き取る財は、稀である。なぜ医療だけが、ここまで深く統制されるのか。一人の開業医の立場から、その構造を見取り図として描いてみたい。
■ 医療は、ふつうの商品ではない
医療を市場に委ねられないのには、よく知られた三つの理由がある。買い手である患者は、自分が何を必要としているかを判断できない(情報の非対称性)。感染症対策や救急体制は本人を超えて社会に便益を及ぼす(外部性)。そして、いつどれほど重く病むかは誰にも予測できない(需要の不確実性)。
さらに医療には、緊急性という増幅装置が働く。意識を失って運ばれる一瞬、患者は判断できず、価格を比べる余裕もなく、すべての失敗が同時に臨界へ達する。だから部分的な手直しでは穴が残り、価格決定権そのものを国家が引き取ることになる。
ただし、統制が要請されること(効率の論理)と、どこまで統制するか(価値の選択)は別の階層にある。前者は反例がない。後者は、公平をどれだけ重んじるかという社会の選択で決まる。米国は市場を選んで無保険者という不平等を負い、日本は公平を選んで価格決定権を国家に渡した。優劣ではなく、選択の違いである。
■ 無限の需要を、何が配給するのか
自己負担がわずかなら、需要は際限なく膨らもうとする。だが医師も病床も有限だ。膨らむ需要と限りある供給は必ず衝突し、その衝突を裁かねばならない。市場では価格がこれを裁くが、価格を手放した社会では、裁きは別の姿で必ず現れる。
日本は、それを医師の労働時間で裁く。医師の頭数は先進国でも少ない方だが、少ない医師を高速・長時間で働かせ、世界一厚い設備で補い、「待たずに誰でも何度でも」を成立させている。ヨーロッパは、それを患者の待ち時間で裁く。予算が検査や手術の量に上限をかけ、あふれた需要は待機リストに並ぶ。どちらも配給から逃れていない。痛みの置き場所が違うだけで、痛みそのものは消えない。
■ 医師は、何で動くのか
配給をいちばん生々しく支えているのは、医師の労働そのものである。開業医は事業主として、診た数が収入になる(金銭の誘因)。若い勤務医は、給与は変わらずとも、症例や資格という人的資本のために働く(キャリアの誘因)。そして加齢とともに、金銭でもキャリアでもない、時間と自律という第三の通貨が重みを増す。開業とは、労働を引き出す通貨を、キャリアから金銭へ乗り換える移行にほかならない。
■ 「国」は、一枚岩ではない
価格と配給のレバーは、目的の異なる三つの手が、逆向きに引き合っている。国費を抑えたい財務省、提供体制を守りたい厚生労働省、物価を抑えたい日本銀行。「国はアクセルかブレーキか」がはっきりしないのは、国が迷っているのではなく、別の目的を持つ複数の主体が同じレバーを逆へ引いているからだ。
ここに、ねじれが生じる。日銀が物価にブレーキを踏む同じ時期、診療報酬は医療従事者の賃金にアクセルを踏む。財には引き締め、人には引き上げ。しかも、削りやすいのは損益率の高く見える外来であり、費用を実際に押し上げるのは入院である。削る相手と、膨らむ原因が、別の場所にある。
■ では、どうなるのか
この構造の中で、開業医に導かれる身の処し方は三つある。財政が削りたい領域から、提供体制が守りたい機能(在宅・看取り・連携)へ比重を移すこと。逼迫する労働を、事務の自動化や技術で代替すること。ただし、弱った高齢者との対面だけは、機械には代えられない。そして、統制が生む煩雑さを、それを払える者にとっての堀に変えること。
ただし、これは勝てる側の戦略である。同じ構造が、規模も余力も小さい診療所には、静かな退場の圧力として働く。この戦略が有効であること自体が、医療の二極化という、望ましくない帰結の裏面でもある。
医療は、市場が失敗する財ゆえに統制を標準とし、その統制経済は、無限の需要を価格ではなく医師の労働で配給する。価格を握る「国」は一枚岩ではなく、財政・提供体制・物価の綱引きであり、そのねじれが、削る相手と膨らむ原因のずれを生む。値段の付け替えは、痛みを移すことはできても、なくすことはできない。
