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2026.07.04

連載・統制と市場のあいだ 第一回
医療という財は、なぜ特別なのか

ある内科診療所が、月に六百人あまりを診る。その多くは高血圧や糖尿病を抱え、月に一度、判で押したように受診に訪れる。医師は薬を処方し、検査値を確認し、生活の注意を述べる。外形だけ見れば、床屋が髪を切り、整備工が車を直すのと変わらない反復的なサービスに見える。

だが、決定的に違うことが一つある。床屋は自分で料金を決められるのに、医師は決められない。一回の診察にいくら、という値段は、二年ごとに国が全国一律で定める。なぜ医療だけが、こうも違うのか。この素朴な問いが、連載全体の入口である。

■ 市場が働くための前提

多くの財を市場に委ねてよいのは、市場が一定の前提のもとで効率的に働くからである。買い手が自分の必要を判断でき、売り手との情報格差が小さく、ある人の取引が第三者に害を及ぼさず、買い手が「高ければ買わない」という選択を持つ。これらが揃うとき、価格が需要と供給を釣り合わせ、資源は過不足なく配分される。

医療が特別なのは、この前提が、一つではなく複数、同時に崩れるからである。医療経済学は古くから三つを指摘してきた。第一に、情報の非対称性。患者は自分にどの検査や治療が必要かを判断できず、判断するのは売り手である医師の側である。買い手が価値を判断できないため、価格を規律する力が働かない。第二に、外部性。感染症の治療や救急体制は、本人だけでなく社会全体に便益を及ぼすが、その便益は市場の取引に現れず、任せれば過少にしか供給されない。第三に、需要の不確実性。人はいつ、どれほど重く病むかを予測できない。だから保険で危険を束ねる必要が生じ、そして保険が需要を膨らませるという新たな歪みを生む。

■ なぜ「部分的な手直し」では足りないのか

市場が失敗する財(市場に任せてもうまく配分されない財、という経済学の用語)は、医療に限らない。環境汚染は外部性を、金融は情報の非対称性を抱える。だがこれらの多くは、市場そのものは残したまま、失敗した一点だけを政府が補う方式で対処される。環境には炭素税を、金融には規制をかけるが、価格そのものは市場が決める。

医療がこれらと違うのは、失敗が一点に凝縮して同時に起きるからである。意識を失って救急搬送される患者を思えばよい。その瞬間、患者は自分に何が必要か判断できず、価格を比べる時間も能力もなく、治療は社会をも守り、支払い能力がなければ治療しないとは社会が容易に言えない。複数の失敗が、一回の受診という一つの取引のなかで、同時に発火する。緊急性は、独立した要素というより、他の失敗から時間の余裕を奪い、一斉に増幅する装置として働く。だから一箇所を手直ししても他の穴が残り、価格決定そのものを国が引き取る方向へ向かわざるをえない。

■ ここまでは、安全に言える

ここで、どこまで一般化してよいかを見定めておきたい。「医療は市場が失敗する財であり、その失敗が緊急の一取引に凝縮するため、何らかの統制が要請される」――ここまでは、安全に言い切れる。なぜなら、反例が存在しないからである。医療を純粋な市場に委ねた国は、一つもない。市場原理に最も近いとされるアメリカでさえ、高齢者向けの公的保険、低所得者向けの扶助、資格と施設の厳格な規制を大量に備えている。「医療には何らかの統制が要る」という水準までは、反例が見当たらない。

■ ここから先は、価値の選択

だが、ここから先へ進んではならない。「だから医療は全面的な公定価格になる」と言った瞬間、反例が立ち上がる。アメリカである。一人の救急患者で複数の失敗が同時発火する点は、日米で変わらない。医療という財の性質は同じである。それなのに、アメリカは価格決定を国が握る方式を選ばず、日本は選んだ。

この違いは、効率の論理からは導けない。違いを生むのは、その社会が公平をどれだけ重く見るか、という価値の選択である。効率の論理は、医療に何らかの統制を要請する。だが、その統制をどこまで、どんな形で敷くかは、効率では決まらず、公平という価値選択で分岐する。アメリカは自己決定と市場を上位に置き、無保険者という不平等を代償にした。日本は公平を上位に置き、皆保険とフリーアクセスのために、価格決定権を国に渡した。どちらが正しいという話ではない。同じ土台の上に、異なる価値選択で、異なる建物を建てたのである。

医療は、市場が失敗する財ゆえに統制を標準とする。だが、その統制の形は、経済学ではなく、社会の価値選択が決める。この二層を取り違えないことが、すべての出発点になる。次回は、価格による調整を手放した統制経済が、無限の需要を何によって配給するのかを問う。

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