連載・統制と市場のあいだ 第二回
無限の需要を、何が配給するのか
前回、日本は公平を選び、皆保険とフリーアクセスによって、誰もが医療にたどり着けることを選んだ、と述べた。だが、ここに一つの帰結が伴う。価格をほとんど意識せずに医療を受けられるということは、価格で需要を絞るという市場の調整機能を、社会が手放したということである。
■ 配給という問題
床屋なら、値段が高ければ行く回数を減らす。だが自己負担がわずかで済む医療では、「高いから控える」という歯止めが弱い。ほぼ無償の医療への需要は、際限なく膨らもうとする。ところが、医師も看護師も病床も有限である。無限に膨らむ需要と、有限の供給。この二つは必ずどこかで衝突し、その衝突を裁かねばならない。これが配給という問題である。
市場では、この裁きを価格が行う。高ければ需要が減り、供給と釣り合う。だが医療は、価格による裁きを手放した。では、価格に代わって何が需要と供給を裁くのか。答えはこうである――価格をなくしても、裁きそのものはなくならない。裁きは、価格以外の形をとって、必ずどこかに現れる。そして、その形が、国によって異なる。
■ 日本――医師の労働で裁く
日本の姿を、数字で確認する。人口千人当たりの医師数は二・六人で、OECD平均の三・九人を下回り、先進国では少ない部類に入る。ところが、医師以外の資源はどれも分厚い。病床数は平均の約三倍、CTやMRIも三倍以上、薬剤師も看護師も平均を上回る。日本は、医師の頭数だけが薄く、それ以外の資本と人手は世界トップクラスに厚い。
ここで言葉を正確にしたい。「医師が薄い」とは頭数が少ないという意味であって、働く量が少ないという意味ではない。むしろ逆で、日本は少ない頭数の医師に、一人当たり過大な労働を担わせている。短い診察を高速で数多くこなし、長時間働く。この労働の厚さと、分厚い資本が、医師の頭数の薄さを補い、「待たずに、誰でも、何度でも」というフリーアクセスを成立させている。
その代償は、医師の労働に集中して現れる。需要を価格で絞らず、医師の頭数も薄いままフリーアクセスを保てば、しわ寄せは医師一人当たりの労働時間に積み上がる。日本の配給の通貨は、待ち時間ではなく、医師の労働時間なのである。患者が払わずに済んでいる順番待ちの代わりに、医師が長時間労働という形で代金を払っている。近年の働き方改革は、それまで野放しだったこの配給弁を、締めにかかる動きにほかならない。
■ ヨーロッパ――待ち時間で裁く
イタリアを見ると、正反対の構造が見える。「医師が少ないから待つ」という説明は、ここでは成り立たない。イタリアの医師数は日本の約二倍で、OECD平均を上回る。医師が多いのに、待ち行列が長い。日本は医師が少ないのに、待たずに受診できる。医師数と待ち時間は、国をまたいで見ると、むしろ逆を向くことすらある。
ではなぜ待つのか。イタリアや英国の型は、公的予算によって、システムが提供する手術や検査の量に上限をかける。医師が何人いようと、予算が認める件数には天井がある。その天井を需要が超えれば、あふれた患者は待機リストに並ぶ。日本が需要を絞らず労働強度で吸収するのに対し、ヨーロッパ型は供給の側に予算で蓋をして、あふれを待ち行列で吸収する。
■ どの配給も、ただではない
見えてくるのは、配給から逃れた国は一つもない、という事実である。日本では医師の労働時間として、ヨーロッパでは患者の待ち時間として、裁きが現れる。形が違うだけで、誰かがどこかで代金を払っている。そして、痛みの置き場所を変えても、痛みそのものは消えない。国は、配給の痛みをどこに置くかは選べる。だが、無限の需要と有限の供給というずれそのものは、方針一つでは消せない。
一つ、見落とされがちな点を添えたい。待ち行列は「所得に左右されない公平な配給だ」と言われる。だが実際には、高学歴・高所得の人ほど専門医の待ち時間が短いという調査がある。列に並ぶ仕組みも、知識や伝手のある人が前に出る、別種の不平等を生む。日本の「待たずに誰でも」というフリーアクセスの方が、この点では所得に左右されにくいかもしれない。どの配給方式を選ぶかは、どの種類の不平等を受け入れるかの選択でもある。
次回は、この「医師の労働」の内側へ入る。給与制で金銭の見返りが乏しい勤務医を、過酷な労働へ駆り立てているものは何か。医師が生涯にわたって何に動かされて働くのか、という問いである。
