連載・統制と市場のあいだ 第三回
医師は、何に動かされて働くのか
前回、日本の配給を支えるのは医師の労働だと述べた。今回は、その労働の内側へ入る。医師が生涯にわたって何に駆動されて働くのか、という問いである。
■ 二つの誘因――金銭とキャリア
医師の労働を引き出す誘因には、性質の異なる二つがある。
外来を担う開業医は、事業主である。医療機関の収入は診療量に連動し、それが院長の取り分になる。だから、診療量を増やす労働は、そのまま金銭の見返りに結びつく。外来の労働を引き出しているのは、金銭の誘因である。
入院を担う勤務医は、これと異なる。給与制のもとでは、診療量を増やしても給料は増えない。金銭の誘因は、ここでは切れている。それにもかかわらず、とりわけ若い勤務医は、過酷な労働を引き受ける。彼らを駆動しているのは、技術の習得、症例の蓄積、専門医資格、次のポストといった、金銭以外の見返り――すなわちキャリアという誘因である。
研修医の薄給は、その何よりの証拠である。金銭で報われないのに、若い医師がその職を激しく求めるのは、技術と経験と将来という、金銭以外の対価が支払われているからにほかならない。薄い賃金と長い労働の組み合わせは、低い金銭報酬を、将来の人的資本の見返りで補償する、暗黙の投資契約として理解できる。当事者の意識の上では、その労働は苦行や根性や奉仕の物語で語られる。だが、その物語の下で実際に働いているのは、キャリアという非金銭の誘因である。苦行の物語は、人的資本への投資という構造を覆う、文化的な被膜なのである。
■ 誘因の減衰と、開業という移行
キャリアという誘因には、金銭にはない性質がある。加齢とともに減衰する、という点である。若いうちは技術と資格への渇望が労働を激しく引き出す。だが、技術が成熟し、資格を取り終え、蓄積から得られる追加の見返りが小さくなると、その誘因は次第に薄れる。すると、金銭では報われない過重労働を、給与制のまま続ける理由が消えていく。
ここに、開業という現象を読み直す鍵がある。開業医と勤務医は、別種の医師なのではない。一人の医師の生涯における、二つの局面なのである。医師は人生の前半を、病院で、キャリアという非金銭の誘因に駆動されて働く。その誘因が加齢で減衰したとき、駆動源を金銭の誘因へ乗り換える。開業とは、労働を引き出す通貨を、キャリアから金銭へ切り替える移行にほかならない。診療所の医師の平均年齢が、病院の医師より明らかに高いという事実が、これを裏づける。外来と入院は、二種類の医療であると同時に、一人の医師が生涯に通過する、二つの局面でもあったのである。
■ 第三の通貨――時間と自律
だが、医師を動かす通貨は、金銭とキャリアの二つに尽きるのか。ここに、もう一つの留保を加えねばならない。
医師のなかには、診療の質や、自分の時間や、患者との関係といった、収益にもキャリアにも還元されない価値を、労働の核に置く者がある。海外の医療システムには、主治医制度を持たず、医師一人当たりの患者数を抑え、医師の生活を診療に縛りつけない設計をとる国がある。そうした環境では、報酬が低くなくとも、医師は時間と自律という、第三の通貨に引かれて働く。
この第三の通貨の存在は、重要な含意を持つ。医師の働き方改革が制約しようとしているのは、まさにこの労働時間という資源であり、それは医師にとって、金銭やキャリアでは完全には代替できない、時間という通貨に直接かかわるからである。
■ 器と個人の乖離
入院医療には、もう一つ、報酬の論理のねじれがある。勤務医個人の給料は診療量に連動しないが、病院という器の収入は、診療量や重症度に連動する。つまり、病院は出来高的な誘因で動き、より多くの、より重い患者を受け入れようとするのに、その内部で働く勤務医は、給与制で金銭の誘因が切れている。
この器と個人の乖離が、勤務医の疲弊の温床となる。病院は診療量を増やそうとするが、その負荷を負う勤務医の給料は、それに応じて増えない。外来では、開業医という一人の人格のなかで器と個人が一致している――増えた診療の見返りは自分に返る――のとは、決定的に異なる。入院医療では、誘因を受け取る主体と、労働を負担する主体が、分離しているのである。
配給を最も生々しく支えているのは、統計に現れる病床や機器ではなく、この医師の労働そのものである。次回は、その労働を含めた医療全体の価格を握る「国」が、実は単一の主体ではないことを見る。
